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秋です。
屍のような生者の上っ面をツルツルと滑りながら、
バカみたいにはしゃぎ、日本的民主主義をつくり上げ、
ひたすら隣人の悲しみを共感し、安心し、手と手で心を心に納めます。
そうです秋なんです。
それはまるで例えば行列をつくる蟻みたく、
本能的使命はあるかもしれないが思考はない。
良きにしろ悪きにしろ思考を生み出すには行列を
はずれる偶発性が必要だなって・・・。
知ることは教育の外にあるのでは?と思っていた
応用編として生きるという事の答えは
生きるという事の外側になるのでは?と思っていた
が、それは所詮青臭い思考の精子段階で、
結局はトロロや卵あたりを上からぶっかければ
他人でも容易に胃に流し込める一品でした。
「井の中の蛙、大海を知らず」
は知っていた。(感じていた)
で、なんだかんだ出た答えが
「大海を知った蛙、空は飛べず」
つまりは生きることを知るは生きる事の外側のさらに外側でした。
もっとつまりは人間である以上、人間らしさを知り
人間らしく生きることが、主体としての生きるという認識なのか。
「俺はお前らとは違う!」という輩には
「じゃあ、お前はタヌキか?」
という的外れな白痴レトリックをぶっ込めばいい。
思考展開能力のない人間には
「そんなこと言ってる俺もお前も同じ人間だからな」
のオプションをレモンのように添えてやればいい。
今読み返すとかなり腑抜けでペラペラの宗教感丸出し
な上に何言ってるのか全くわかりません!!
これが秋の怖さです。
罰としてあえて載せときます。
ようは私は、アリを哀れみ嫌がる、アリに限りなく似た人間です。
そしてアナタもです。
屍のような生者の上っ面をツルツルと滑りながら、
バカみたいにはしゃぎ、日本的民主主義をつくり上げ、
ひたすら隣人の悲しみを共感し、安心し、手と手で心を心に納めます。
そうです秋なんです。
それはまるで例えば行列をつくる蟻みたく、
本能的使命はあるかもしれないが思考はない。
良きにしろ悪きにしろ思考を生み出すには行列を
はずれる偶発性が必要だなって・・・。
知ることは教育の外にあるのでは?と思っていた
応用編として生きるという事の答えは
生きるという事の外側になるのでは?と思っていた
が、それは所詮青臭い思考の精子段階で、
結局はトロロや卵あたりを上からぶっかければ
他人でも容易に胃に流し込める一品でした。
「井の中の蛙、大海を知らず」
は知っていた。(感じていた)
で、なんだかんだ出た答えが
「大海を知った蛙、空は飛べず」
つまりは生きることを知るは生きる事の外側のさらに外側でした。
もっとつまりは人間である以上、人間らしさを知り
人間らしく生きることが、主体としての生きるという認識なのか。
「俺はお前らとは違う!」という輩には
「じゃあ、お前はタヌキか?」
という的外れな白痴レトリックをぶっ込めばいい。
思考展開能力のない人間には
「そんなこと言ってる俺もお前も同じ人間だからな」
のオプションをレモンのように添えてやればいい。
今読み返すとかなり腑抜けでペラペラの宗教感丸出し
な上に何言ってるのか全くわかりません!!
これが秋の怖さです。
罰としてあえて載せときます。
ようは私は、アリを哀れみ嫌がる、アリに限りなく似た人間です。
そしてアナタもです。
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今さら明けましておめでとうございます。ってなりますね。
そろそろブログもゴースト化し、オーディエンスも激減したところで更新します。
「脱力系」キャラクターについての独り言です。
アニメ大国の日本では、やはり他の国に比べ圧倒的にプライオリティが高いのが
ブランディング手法の一つであるキャラクター化です。 今は「脱力系」という
キャラクターがまだ流行の幅をなんとか効かせていて、「脱力系」か「悪ふざけ」が
ギリギリなところが世の中に氾濫している様な気もします。 そんな中アニメーションの
世界ではどうでしょう。 シンボル的なキャラクターは完全にビジュアルが大切になって
きますが、モーションを加えるだけで、キャラクターの捉え方が変わってくる気がします。
それは動きであったり、会話の間であったりし・・・
4、5年前マイブームであった「ゴールデンエッグス」
ビジュアルで笑いに取りにいってる訳ではなく一連の人との会話で
その人達にキャラクターが引き出されているいます。
その会話も笑わし行くというよりも、「間」と「ギャップ」で
クスクス笑いを誘います。「間」と「ギャップ」というのは
外国人のキャラクターがモロ日本語でしかも日本独特の「間」を
使うというところに、笑いを誘う要素があるのでしょう。
次に今好きなのは「ピーピングライフ」
これはさらにビジュアル個性を削ぎ落としたキャラクターが
展開するやりとりです。
これは単純に「あるある」をアニメーションにしているのですが
やはり、二次元にリアルな「間」を持たせることで凄く面白く
なっています。
これを見るとやはり「静的」と「動的」で「脱力系」という
意味が全然違いますね。モーションでの脱力キャラというのは
ビジュアルよりも「状況」なのだと思います。それはメディアという
立場を意識せず、日常の断面をとらえること、2次元の中に
生活感を出すことが「脱力感」につながるのだと思います。
動画を見ると
よりも
よりも
まちゃひこが好き!
そろそろブログもゴースト化し、オーディエンスも激減したところで更新します。
「脱力系」キャラクターについての独り言です。
アニメ大国の日本では、やはり他の国に比べ圧倒的にプライオリティが高いのが
ブランディング手法の一つであるキャラクター化です。 今は「脱力系」という
キャラクターがまだ流行の幅をなんとか効かせていて、「脱力系」か「悪ふざけ」が
ギリギリなところが世の中に氾濫している様な気もします。 そんな中アニメーションの
世界ではどうでしょう。 シンボル的なキャラクターは完全にビジュアルが大切になって
きますが、モーションを加えるだけで、キャラクターの捉え方が変わってくる気がします。
それは動きであったり、会話の間であったりし・・・
4、5年前マイブームであった「ゴールデンエッグス」
ビジュアルで笑いに取りにいってる訳ではなく一連の人との会話で
その人達にキャラクターが引き出されているいます。
その会話も笑わし行くというよりも、「間」と「ギャップ」で
クスクス笑いを誘います。「間」と「ギャップ」というのは
外国人のキャラクターがモロ日本語でしかも日本独特の「間」を
使うというところに、笑いを誘う要素があるのでしょう。
次に今好きなのは「ピーピングライフ」
これはさらにビジュアル個性を削ぎ落としたキャラクターが
展開するやりとりです。
これは単純に「あるある」をアニメーションにしているのですが
やはり、二次元にリアルな「間」を持たせることで凄く面白く
なっています。
これを見るとやはり「静的」と「動的」で「脱力系」という
意味が全然違いますね。モーションでの脱力キャラというのは
ビジュアルよりも「状況」なのだと思います。それはメディアという
立場を意識せず、日常の断面をとらえること、2次元の中に
生活感を出すことが「脱力感」につながるのだと思います。
動画を見ると
よりも
よりも
まちゃひこが好き!
この前NHK スペシャルで特集されたグーグルの社長の発言で
「世界中のすべての情報が検索できるようにするのが私の夢だ」
ってのがありました!・・・・・・っていうのはさておき、
すっかり暑くなりました。 暑いと思考するのがめんどくさくなりますね。
・・・・・・っていうのはさておき、グーグルでは社員たちが何でも夢を
書いていいというボードに
「グーグル通貨」 「グーグル政府」
なんてことも書いている光景が映し出されいました。
別にグーグルを攻めるわけではなく、むしろNHKの
編集の仕方かもしれませんが彼らの精神は、自分
の全能を疑っていなかったアニミズム的世界観の
次元にとどまっているように見えた。
コンピューターが今や本当に世界を制しそうな勢い
だが、コンピューターにそんなことができるのはコン
ピューターが文化も文明も伝統も持たない空っぽの
空間だったからだと思います。
それを生み出したのが科学であることは間違いないし、
操る人たちも数学のスペシャリストがほとんどだけれど、
フロイトが言う
アニミズム→宗教→科学
という段階を経た科学ではなくて、突然にょきって・・
あるいはビックバーンのように発生した科学でしかない。
文字を持たない遥か遠い昔、人間の前に宇宙人が降りてきて、
コンピューターの作り方と数式だけを教え込んだ。感じ
こんな現象が地球を覆い尽くすとしたら、それは現代だから
としか言いようはないのでしょう。
80年代にコンピューターがパソコンとなって普及しはじめた頃、
人は間違いなくパソコンに「思考の万能」を夢見ていたはずです。
まさに人類のアニミズム段階の再燃というか、人類にとって
「もっとも首尾一貫して遺漏のないもの」
(世界の本質をあますところなく説明する世界観)
であるところのアニミズム的な全能への願望に火がついてしまった
のではないのでしょうか。科学者側は
「グーグルなんか科学ではない!あいつらはパソコンおたくの数学バカ集団だ!」
と罵倒を浴びせたとしてもほとんどの科学者が科学の全能を
疑っていないように映ることまでは、あえて否定はしませんが・・・・・。
「世界中のすべての情報が検索できるようにするのが私の夢だ」
ってのがありました!・・・・・・っていうのはさておき、
すっかり暑くなりました。 暑いと思考するのがめんどくさくなりますね。
・・・・・・っていうのはさておき、グーグルでは社員たちが何でも夢を
書いていいというボードに
「グーグル通貨」 「グーグル政府」
なんてことも書いている光景が映し出されいました。
別にグーグルを攻めるわけではなく、むしろNHKの
編集の仕方かもしれませんが彼らの精神は、自分
の全能を疑っていなかったアニミズム的世界観の
次元にとどまっているように見えた。
コンピューターが今や本当に世界を制しそうな勢い
だが、コンピューターにそんなことができるのはコン
ピューターが文化も文明も伝統も持たない空っぽの
空間だったからだと思います。
それを生み出したのが科学であることは間違いないし、
操る人たちも数学のスペシャリストがほとんどだけれど、
フロイトが言う
アニミズム→宗教→科学
という段階を経た科学ではなくて、突然にょきって・・
あるいはビックバーンのように発生した科学でしかない。
文字を持たない遥か遠い昔、人間の前に宇宙人が降りてきて、
コンピューターの作り方と数式だけを教え込んだ。感じ
こんな現象が地球を覆い尽くすとしたら、それは現代だから
としか言いようはないのでしょう。
80年代にコンピューターがパソコンとなって普及しはじめた頃、
人は間違いなくパソコンに「思考の万能」を夢見ていたはずです。
まさに人類のアニミズム段階の再燃というか、人類にとって
「もっとも首尾一貫して遺漏のないもの」
(世界の本質をあますところなく説明する世界観)
であるところのアニミズム的な全能への願望に火がついてしまった
のではないのでしょうか。科学者側は
「グーグルなんか科学ではない!あいつらはパソコンおたくの数学バカ集団だ!」
と罵倒を浴びせたとしてもほとんどの科学者が科学の全能を
疑っていないように映ることまでは、あえて否定はしませんが・・・・・。