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私の名前は「白川 諭(シラカワサトシ)」です。 それ以上それ以下でもありません。
この名前を聞いて私を実際知る人とblogでしか知らない人では全くの印象が違うと思います。
では「白川 諭」ってなんだろうって考えた時、それは、ただの「名前」だということ。
当たり前か。
今回は以前もエントリーしたことあるのですが、「言葉」についての一人会議議事録です。
言葉というよりもパッケージ化された現象の危惧を示唆した内容になると思います。
私達の世界では「生きる」=「社会生活」は絶対の図式です。その中で効率的に
コミュニケーションを図る方法を我々は本能的に取捨選択しているんだと思います。
現在のコミュ二ケーションは管理社会と呼ばれる程によりシステマティックになっていますが、
基本的なコミュ二ケーションツールとしてはやはり「お金」と「言語」だと思います。
日本人同士の日本語という想定の中で現在、私たちは人に何かを伝える程度の言葉を紡ぐことが
可能です。しかし、常に生まれたり、変化したりする言葉もあります。
それが「名前」です。
最近ではやたら「パッケージ化」されることが多いような気がする。
それはネットの普及によって会話よりも文字としてのやりとりが増えてきたからなんでしょう。
できるだけ簡潔な文章にしたいのであれば言葉を「パッケージ化」する方が効率が良いからです。
もちろん社会的認知あるいはサイバー内認知を獲得しなければ、成立はしません。
名前を決めることはコミュニケーションを円滑にする為にはもちろん必要不可欠なことです。
私が危惧するのは「現象」や「傾向」のパッケージ化です。
例えば「ロリータ・コンプレックス」という現象。
で押井守氏が語っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
幼い少女に欲情する、あるいは幼い子にしか欲情できないという
現象ですが、はたしてそれは、ウラジミール・ナポコフが
「ロリータ」を書く前から存在していたのかということ。
「ロリータ」と名付けられるまでは文化的な行為ではないし、
「特殊な性的傾向を持つグループ」という以上の存在には
なりえなかったはずです。ところが「ロリータ」が書かれたことで、
未成熟な女を求めるという不可解な行為が社会的認知を得る事は
難しくても文化的、あるいは文学的認知は得れたことになります。
未成熟な女子に興味を持っていた男は、自分の中の妙な衝動を、
それまでは自分でも説明できず、戸惑いながら気づかないふり
をしていたはずです。
ところが、それがひとたびパッケージ化された途端にその行為
は確たる文化的行為として追認される。
それどころか、本能として自分の傾向に気づく前に、商品化された
ロリータに影響されて、後天的に特殊な性欲に目覚めるケースも
あるのではないのでしょうか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
まぁこれに関しては社会的認知を得れないタブーが
パッケージ化によって文化的認知を得ることができる
というケースで話ていますが、最後の後天的な目覚め
という部分では、本筋を通すことができます。
その他の現象によるパッケージ化というのは
「マザー・コンプレックス」
「うつ病」
「ニート」
「セクシャル・ハラスメント」等
ネット上での発生としては
「秋葉系」
「萌え」
「腐女子」
最近では「草食系男子」とか
後天性を含む危険性の他にあげられることとして
● 現象のパッケージ化は少し違うケースであっても結果が酷似しているだけで
「名前」に収束される求心力を持ち、同じケースとして扱われるということ。
■「パッケージ化された現象」は社会的認知あるいは文化的認知を獲得して
生まれたものなので、可能性がよぎれば洗脳される強さを持っているという事。
■ パッケージ化の行為は現象として終焉を迎えてしまっているので
自己の「何故?」という思考が喪失してしまうという事。
母を慕う気持ちが「マザコン」と馬鹿にされたり、
少し疲れただけで、「うつ病」と自分で理由をつけ、
働く気持ちがあるのに無職というだけで、「ニート」と言われ
プライベートな質問をしただけで「セクハラ」と呼ばれます。
悪い例ばかりを並べましたが、それが逆に良い例になっていることももちろんあります。
ただ今は危険性を示唆している立場なので自重します。
この名前を聞いて私を実際知る人とblogでしか知らない人では全くの印象が違うと思います。
では「白川 諭」ってなんだろうって考えた時、それは、ただの「名前」だということ。
当たり前か。
今回は以前もエントリーしたことあるのですが、「言葉」についての一人会議議事録です。
言葉というよりもパッケージ化された現象の危惧を示唆した内容になると思います。
私達の世界では「生きる」=「社会生活」は絶対の図式です。その中で効率的に
コミュニケーションを図る方法を我々は本能的に取捨選択しているんだと思います。
現在のコミュ二ケーションは管理社会と呼ばれる程によりシステマティックになっていますが、
基本的なコミュ二ケーションツールとしてはやはり「お金」と「言語」だと思います。
日本人同士の日本語という想定の中で現在、私たちは人に何かを伝える程度の言葉を紡ぐことが
可能です。しかし、常に生まれたり、変化したりする言葉もあります。
それが「名前」です。
最近ではやたら「パッケージ化」されることが多いような気がする。
それはネットの普及によって会話よりも文字としてのやりとりが増えてきたからなんでしょう。
できるだけ簡潔な文章にしたいのであれば言葉を「パッケージ化」する方が効率が良いからです。
もちろん社会的認知あるいはサイバー内認知を獲得しなければ、成立はしません。
名前を決めることはコミュニケーションを円滑にする為にはもちろん必要不可欠なことです。
私が危惧するのは「現象」や「傾向」のパッケージ化です。
例えば「ロリータ・コンプレックス」という現象。
で押井守氏が語っています。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
幼い少女に欲情する、あるいは幼い子にしか欲情できないという
現象ですが、はたしてそれは、ウラジミール・ナポコフが
「ロリータ」を書く前から存在していたのかということ。
「ロリータ」と名付けられるまでは文化的な行為ではないし、
「特殊な性的傾向を持つグループ」という以上の存在には
なりえなかったはずです。ところが「ロリータ」が書かれたことで、
未成熟な女を求めるという不可解な行為が社会的認知を得る事は
難しくても文化的、あるいは文学的認知は得れたことになります。
未成熟な女子に興味を持っていた男は、自分の中の妙な衝動を、
それまでは自分でも説明できず、戸惑いながら気づかないふり
をしていたはずです。
ところが、それがひとたびパッケージ化された途端にその行為
は確たる文化的行為として追認される。
それどころか、本能として自分の傾向に気づく前に、商品化された
ロリータに影響されて、後天的に特殊な性欲に目覚めるケースも
あるのではないのでしょうか?
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まぁこれに関しては社会的認知を得れないタブーが
パッケージ化によって文化的認知を得ることができる
というケースで話ていますが、最後の後天的な目覚め
という部分では、本筋を通すことができます。
その他の現象によるパッケージ化というのは
「マザー・コンプレックス」
「うつ病」
「ニート」
「セクシャル・ハラスメント」等
ネット上での発生としては
「秋葉系」
「萌え」
「腐女子」
最近では「草食系男子」とか
後天性を含む危険性の他にあげられることとして
● 現象のパッケージ化は少し違うケースであっても結果が酷似しているだけで
「名前」に収束される求心力を持ち、同じケースとして扱われるということ。
■「パッケージ化された現象」は社会的認知あるいは文化的認知を獲得して
生まれたものなので、可能性がよぎれば洗脳される強さを持っているという事。
■ パッケージ化の行為は現象として終焉を迎えてしまっているので
自己の「何故?」という思考が喪失してしまうという事。
母を慕う気持ちが「マザコン」と馬鹿にされたり、
少し疲れただけで、「うつ病」と自分で理由をつけ、
働く気持ちがあるのに無職というだけで、「ニート」と言われ
プライベートな質問をしただけで「セクハラ」と呼ばれます。
悪い例ばかりを並べましたが、それが逆に良い例になっていることももちろんあります。
ただ今は危険性を示唆している立場なので自重します。
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