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 秋です。


屍のような生者の上っ面をツルツルと滑りながら、

バカみたいにはしゃぎ、日本的民主主義をつくり上げ、

ひたすら隣人の悲しみを共感し、安心し、手と手で心を心に納めます。


そうです秋なんです。


それはまるで例えば行列をつくる蟻みたく、

本能的使命はあるかもしれないが思考はない。

良きにしろ悪きにしろ思考を生み出すには行列を

はずれる偶発性が必要だなって・・・。

知ることは教育の外にあるのでは?と思っていた

応用編として生きるという事の答えは

生きるという事の外側になるのでは?と思っていた

が、それは所詮青臭い思考の精子段階で、

結局はトロロや卵あたりを上からぶっかければ

他人でも容易に胃に流し込める一品でした。


「井の中の蛙、大海を知らず」


は知っていた。(感じていた)

で、なんだかんだ出た答えが


「大海を知った蛙、空は飛べず」


つまりは生きることを知るは生きる事の外側のさらに外側でした。

もっとつまりは人間である以上、人間らしさを知り

人間らしく生きることが、主体としての生きるという認識なのか。


「俺はお前らとは違う!」という輩には

「じゃあ、お前はタヌキか?」

という的外れな白痴レトリックをぶっ込めばいい。

思考展開能力のない人間には

「そんなこと言ってる俺もお前も同じ人間だからな」

のオプションをレモンのように添えてやればいい。



今読み返すとかなり腑抜けでペラペラの宗教感丸出し

な上に何言ってるのか全くわかりません!!


これが秋の怖さです。


罰としてあえて載せときます。


ようは私は、アリを哀れみ嫌がる、アリに限りなく似た人間です。


そしてアナタもです。






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今さら明けましておめでとうございます。ってなりますね。
そろそろブログもゴースト化し、オーディエンスも激減したところで更新します。


「脱力系」キャラクターについての独り言です。

アニメ大国の日本では、やはり他の国に比べ圧倒的にプライオリティが高いのが

ブランディング手法の一つであるキャラクター化です。 今は「脱力系」という

キャラクターがまだ流行の幅をなんとか効かせていて、「脱力系」か「悪ふざけ」が

ギリギリなところが世の中に氾濫している様な気もします。 そんな中アニメーションの

世界ではどうでしょう。 シンボル的なキャラクターは完全にビジュアルが大切になって

きますが、モーションを加えるだけで、キャラクターの捉え方が変わってくる気がします。

それは動きであったり、会話の間であったりし・・・


4、5年前マイブームであった「ゴールデンエッグス」 

ビジュアルで笑いに取りにいってる訳ではなく一連の人との会話で

その人達にキャラクターが引き出されているいます。

その会話も笑わし行くというよりも、「間」と「ギャップ」で

クスクス笑いを誘います。「間」と「ギャップ」というのは

外国人のキャラクターがモロ日本語でしかも日本独特の「間」を

使うというところに、笑いを誘う要素があるのでしょう。

packeage.jpg

次に今好きなのは「ピーピングライフ」



これはさらにビジュアル個性を削ぎ落としたキャラクターが

展開するやりとりです。

これは単純に「あるある」をアニメーションにしているのですが

やはり、二次元にリアルな「間」を持たせることで凄く面白く

なっています。


これを見るとやはり「静的」と「動的」で「脱力系」という

意味が全然違いますね。モーションでの脱力キャラというのは

ビジュアルよりも「状況」なのだと思います。それはメディアという

立場を意識せず、日常の断面をとらえること、2次元の中に

生活感を出すことが「脱力感」につながるのだと思います。

動画を見ると
b7579015.jpeg










よりも

c50ddfa74db1b942bd5f9c96ec1773a0.jpg















よりも

1acd83fa.jpeg















まちゃひこが好き!

私の名前は「白川 諭(シラカワサトシ)」です。 それ以上それ以下でもありません。

この名前を聞いて私を実際知る人とblogでしか知らない人では全くの印象が違うと思います。

では「白川 諭」ってなんだろうって考えた時、それは、ただの「名前」だということ。

当たり前か。

今回は以前もエントリーしたことあるのですが、「言葉」についての一人会議議事録です。

 言葉というよりもパッケージ化された現象の危惧を示唆した内容になると思います。


私達の世界では「生きる」=「社会生活」は絶対の図式です。その中で効率的に

コミュニケーションを図る方法を我々は本能的に取捨選択しているんだと思います。

現在のコミュ二ケーションは管理社会と呼ばれる程によりシステマティックになっていますが、

基本的なコミュ二ケーションツールとしてはやはり「お金」と「言語」だと思います。

日本人同士の日本語という想定の中で現在、私たちは人に何かを伝える程度の言葉を紡ぐことが

可能です。しかし、常に生まれたり、変化したりする言葉もあります。

それが「名前」です。

最近ではやたら「パッケージ化」されることが多いような気がする。

それはネットの普及によって会話よりも文字としてのやりとりが増えてきたからなんでしょう。

できるだけ簡潔な文章にしたいのであれば言葉を「パッケージ化」する方が効率が良いからです。

もちろん社会的認知あるいはサイバー内認知を獲得しなければ、成立はしません。


名前を決めることはコミュニケーションを円滑にする為にはもちろん必要不可欠なことです。


私が危惧するのは「現象」や「傾向」のパッケージ化です。41AWPD2VCRL._SL500_AA240_.jpg


例えば「ロリータ・コンプレックス」という現象。

押井守氏が語っています。
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幼い少女に欲情する、あるいは幼い子にしか欲情できないという
現象ですが、はたしてそれは、ウラジミール・ナポコフ
ロリータ」を書く前から存在していたのかということ。
「ロリータ」と名付けられるまでは文化的な行為ではないし、110d1fc4.jpeg
「特殊な性的傾向を持つグループ」という以上の存在には
なりえなかったはずです。ところが「ロリータ」が書かれたことで、
未成熟な女を求めるという不可解な行為が社会的認知を得る事は
難しくても文化的、あるいは文学的認知は得れたことになります。
未成熟な女子に興味を持っていた男は、自分の中の妙な衝動を、
それまでは自分でも説明できず、戸惑いながら気づかないふり
をしていたはずです。
ところが、それがひとたびパッケージ化された途端にその行為
は確たる文化的行為として追認される。
それどころか、本能として自分の傾向に気づく前に、商品化された
ロリータに影響されて、後天的に特殊な性欲に目覚めるケースもI_N_Image_20050412_210929.jpg
あるのではないのでしょうか?
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まぁこれに関しては社会的認知を得れないタブーが

パッケージ化によって文化的認知を得ることができる

というケースで話ていますが、最後の後天的な目覚め

という部分では、本筋を通すことができます。

その他の現象によるパッケージ化というのは

マザー・コンプレックス

うつ病a0081172_19184211.jpg

ニート

セクシャル・ハラスメント」等

ネット上での発生としては

秋葉系

萌え

腐女子

最近では草食系男子」とか

後天性を含む危険性の他にあげられることとして

● 現象のパッケージ化は少し違うケースであっても結果が酷似しているだけで
 「名前」に収束される求心力を持ち、同じケースとして扱われるということ。



■「パッケージ化された現象」は社会的認知あるいは文化的認知を獲得して
     生まれたものなので、可能性がよぎれば洗脳される強さを持っているという事



■ パッケージ化の行為は現象として終焉を迎えてしまっているので
   自己の「何故?」という思考が喪失してしまうという事。



母を慕う気持ちが「マザコン」と馬鹿にされたり、

少し疲れただけで、「うつ病」と自分で理由をつけ、

働く気持ちがあるのに無職というだけで、「ニート」と言われ

プライベートな質問をしただけで「セクハラ」と呼ばれます。

悪い例ばかりを並べましたが、それが逆に良い例になっていることももちろんあります。

ただ今は危険性を示唆している立場なので自重します。



 今日は比率について先週一人会議があったのでその議事録です。

フラクタル、カオス、パワーに通底する統一的な概念は自己相似です。すなわち尺度や大きさの

変化に対する不変性は私たちのまわりの世界の多くの自然法則や無数の現象が持つ属性です。

冪乗(べきじょう)法則

今回の議事録に関して統括できるキーワードがないものかと探してみたらありました。  
多分!冪乗則。

 この法則から常に人間は束縛を余儀なくされています。

■黄金比

白銀比

ユーグリット

シェルピンスキーのフラクタル

■パレートの法則


そんな法則を今日は紹介します。


黄金比(デザインによる美しいプローモション)

誰もが一度は聞いたことのある比率です。

すなわち1:1.618....の比率です。

右の図のように線ACを点Bで分割したときにAB対BCがzu.jpg

AC対ABに等しくなるときの比率として定義されており、

BC対AB対ACはともに約1:1.618となります。これが

人類はじめての無理数とも言われています。

そんな黄金比が意識してか無意識か様々なモノや場所で

引用されいます。例えば

■トランプ   images.jpeg
■たばこ  
■名刺
■新書          
■ipodシリーズ
■大ピラミッド 
■パルテノン神殿
■ノートルダム寺院dabura1231941918.jpg


黄金比はユーグリットやピタゴラスが発見しましたが、無理数の

存在を嫌い封印しようとまでしたのに、現在では美しい比率とな

っています。元々、ルネサンス期の1509年に数学者ルカ・パチョ

ーリが「神聖な比」という書物を刊行してからだと言われてます20061204203609.jpg

が、今もなおやっぱり美しい比率です。そして驚きなのはそれは

無意識に作り上げたモノが黄金比だったというケースが多いとい

うことです。黄金比率の解明はできますが、それが美しいという

理由は今もなお、わからないのです。本能レベルの問題だと言い

たいところですが、「1:1.618の比率を本能で愛す」って言うのは変な感じがします。 

それでも過去の歴史と共に皆が今でも愛す比率です。そして面白いのはそれが伸縮自在の比率だと言う事!!


パレートの法則(マーケリサーチによるニッパチ)

これも耳にしたことはあると思います。t0268.jpg

つまり80:20の法則です。


例えばわたしたちが日夜使うパソコンのハードディスクの中には

多くのアプリケーションソフトが入っていますが、ほとんどの時間を費やすは2割程度らしいです。

有名なのは企業の中で売上げの8割を占めているものが全商品の2割だということ。

また、社員の2割が企業全体の8割の売上げを担っているということ。

これはイタリアの経済学者が見つけた法則で今から100年くらい前に国民の所得を調査・分析し、

上位2割の人の所得が全所得の8割を占めていたという結果がでて、他の国を調べた ところ同様の結果が

出たといことから生まれた法則です。

これはなにも経済界だけではなく、自然界の法則にも当てはまる事例が多いという不思議。

これに関して黄金比と同様あくまでもマーケティングの結果によるもので、何故という疑問に答えるは難しいのです。

これもやっぱりスケールを変換しても変わらない比率だということ。


とどめの面白話と統括(働きアリによる衝撃の事実)

私は働きアリの様にひたすら働いているのですが、以前働きアリについて調べたところ、実は

働きアリのほとんどがさぼっているのです!!


ショック!しかしだったら、まじめに働いてるアリだけ

コロニーを作ったら凄い集団になるのだろうと思ったのですが、b0097143_1651820.jpg

実際そういった実験が行われたみたいで、そこにまた衝撃な事実。

その凄い集団の中でもごく一部しか働かないのです!

これがパレートの法則に結びつくのかどうかは定かではありませんが

ショックの後に残ったのは、なぜか微笑ましさでした。

2割の社員が8割の売上げを担っているパレートの法則が示すように

全員が優秀だとやっぱりどこかおかしくなってしまうんでしょう?

人はそれぞれに良くも悪くも役割があるのです。

 現実を見据え、極端に走らず、中庸を進むことも人間社会を生きる知恵です。

民主主義でさえ現実と乖離された理念で突き詰めていくと危険であると同じように

理想主義に陥ると大変危険になります。

中途半端な民主主義を持つ日本だけど、今はまだこれ以上の社会運営システムを持ち合わせてないのです。

多少の格差ぐらいなら、今の自分の立ち位置を理解しおおらかに許すぐらいの社会がいいのかもしれません。



で、気持ちよく終わろうと思ったのですが話がそれっぱなしで終わりました。


つまり
そういうことなんです!不思議なんです!

だから
おもしろいんです!地球とか自然とか人間とかが!


 あっ!あけましておめでとうございます。

一年ぶりのBLOGを再開したいと思いますので
どうか皆さん見ないでやって下さい!



以前、二人の人間に同じ質問(思想的な部分)を投げかけたところ

インタバールを要求され、返ってきた答えが一字一句違わない内容でした。

それを聞いた私は、資本主義の崩れていく音と同時に隠喩を含んだ

ニヒリズムな主張を聞いた気がして、未来の行く末に不安を感じました。


今現在、ネットダイブで知識を容易に獲得できる時代になっています。

しかし、WEB2.0のパラダイムシフト以降、知識から知恵を獲得した

発信者の書き込みに、様々な他人の摩擦と反復を経て生まれた曖昧な情報を

曖昧な情報と認識せず発見した瞬間、あたかも知識の獲得として完結する人間が

多くいるような気がします。

それは知恵の格差(サイバースペースにおける知を与える側と受け取る側の格差)

を生むファクターであり、極論で言えばそれが貧富の究極な二極化に繋がる

ことが予見されます。

マスター(与える側)はさらなる知恵を身につけ、人間にとって、これでもか!

という程の便利で都合のよいデバイスやシステムを供給してくれます。

それは時間短縮による緩和的時間の獲得、と同時に解決に向かう身体動作(プロセス)

の放棄、という危険性を孕んでいる。

なぜなら、私は知恵というのは「アクションによって身に付く淘汰された知識」

だと思っているからです。

ともなれば、その身体動作が放棄され、ネットでカロリーも素材もわからない

料理された知識を獲得する行為は、「自己喪失」のトリガーになると

言っても過言ではないでしょう。(考えることを放棄しているので)


そうなると冒頭で経験したように、誰に聞いても同じ回答しか返ってこない。

ネットで泳いでいるモノはあくまで「他人の論(食事)」です。

大切なのは「集(素材)」による「思考(調理)」ではないでしょうか?




ところで私は「宝島社」の広告が好きです。

それは広告と時代が二人三脚しながら潜在的真実を常にアバンギャルドに
表現しているからです。
時に見慣れない言葉が飛び込んできた思うとそれをゆっくりと消化して行く
ように数年後、「なるほど!」と思う。そして改めて「すごい!」って思うのが楽しい。

有名で面白い広告をいくつか紹介するとoji.jpg





■「おじいちゃんにも、セックスを。」


                 1998年


高齢化社会に伴う老人の基準を見直そうという広告



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■「生年月日を捨てましょう。」


                  2003年


年令に縛られない世の中をうたった広告



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■「国会議事堂は解体」

             
                  2002年


負の流儀にとらわれた国会システムをゼロから見直す広告




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yobina2.jpg
そして今回取り上げるのは


■「呼び名を変えれば、日本も変わる(かも)」


                   2003年


                 という広告です。


ビジュアルとしての広告ではインパクトを薄いが
内容としてはとても面白いモノを感じました。

「呼び名」それ自体が人々の意識を呪縛している可能性について考えた広告。

「言霊思想」という言葉があるように、古くから日本人はものの名前に
呪術的な作用があると考え、単なる記号以上の意味をこめて来た。
そこへ、実態とかけ離れた名前に対して、変革への期待と少しの皮肉を
込めて「言い換え案」を提唱したのがこの広告です。

この中でも特に面白いと思ったのは

□官僚→公僕員

□義務教育→サバイバル基礎コース

□生命保険→死亡保険

□ひきこもり→天才予備軍

□風俗嬢→ビタミンガール

□浮浪者→路上哲学者

□遺憾の意→ごめんなさい

なるほど!ちょっと呼び名を変えただけでこんなにも世界が明るくなるのか~。

呼び名の変換について国語学者の金田一秀穂氏は面白い事を言ってました。

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「名前が変わるというのは、例えば「刺身」も「死んだ魚の生の肉」も言ってる
ことは同じなんだけど、ちょっと違うように感じられるということなんです。
「死んだ魚の生の肉」は食べたいとは思わないけど、「刺身」だと食べれます。
でも実際は全く変わらない。つまり僕達は「意味」とか「言葉の希望」を
食べているのであって、「実体」そのものを食べているわけではないんです」
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要するに我々は言葉によって支配されている。言い換えると言葉によって
そのように考えさせられている部分があります。

我々は想像以上に言葉に頼り過ぎています。

メディアはその人やそのモノに勝手にイメージを貼り付けています。

そうすると「実体」から「言葉」が離れて行き、我々はその言葉によって、

動かされいつの間にか「実体」を忘れて行きます。

例えば、野球の落合監督は「オレ流」野球で中日を引っ張ってきましたが、

本人は「オレ」とは言わないそうです。

星野監督も「ワシ」のイメージがありますが、テレビでは「わたし」と言っています。

その様にメディアは言葉のイメージ操作によって流行を構築しています。

メディアに曝される言葉はそれほど影響力があり、シビアに扱っていかなくてはなりません。



しかし言葉というものは常に進化して行きます。


今若者で流行っている「KY用語」がありますが、正しい言葉では

ないが間違った言葉でもないと思います。実際今、「私」を「麻呂」や

「拙者」とは呼ばないように言葉は流動的で進化するものです。

日本に「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」という使い分けでコミュニケーションを

図るように、「KY 」もまたコミニュケーションのツールとして必要であれば

使えば良いと思います。その時その場所で感じた「言葉」がその言葉の

真意だと思うので・・・(メディアに露出する言葉は別の話です。)

でも実際面と向かって「空気読めない人」と言われるより、「KY」の方が

ユーモアがありその隙間に逃げれるので良いかなって思います。

ただ「株式会社KY」という会社があればお察しします。


さて、話がいろんな方向へフライトして行きましたが、用は言葉に

縛られ過ぎるとなかなか真意にたどり着くことは困難で、自己の思考する

応用力も虚弱して行くのではなかろうかと・・・・現にこの広告を見た私が

「なるほど!!」と思ったのも、縛られている証拠だと思います。


言葉にできないモヤモヤ感というのがひょっとして大切なのかもしれませんね。
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